歴史に翻弄されたアルメニア教会 (Destinations北キプロストルコ共和国)

今日は、旅ネタですウインク

地中海に浮かぶキプロス島

北側を占めている北キプロストルコ共和国(国連加盟193ヵ国のうち192ヵ国が非承認)の北ニコシアより

2月22日猫の日を素通りできず、「アラバメット地区の散策」記事を中断し、猫記事になってしまいましたが・・・爆  笑爆  笑

アラバメット地区に戻ります!!ランニングランニングランニング

(ちなみに、前回のアラバネット地区のお話はこちらです→アラバメット地区を歩く!

アラバメット地区は、キプロス紛争(1955年‐)が始まるまではアルメニア人が多く住むエリアでした。

多くのアルメニア人が住む場所となると・・・

”アルメニア教会”があります!

というほど、単純な歴史ではありませんでした・・・

ここ、アラバメット地区にあるアルメニア教会もまた、北キプロスに点在する他の宗教施設と同様、穏やかでない歴史を刻んだ歴史的建造物でした。

南キプロス(キプロス共和国)ではギリシャ正教会やキプロス正教会を訪ね、北キプロスでは、モスクに改築・改装された教会をたくさん見てきましたが、アルメニア教会は初めてです。

地図で確認し、ワクワクしながら出かけたのですが・・・アセアセ

ご覧のとおり、ずいぶんひっそりとした、ちょっと淋し気な佇まいですびっくりびっくり

門こそ開いていましたが、辺りには誰もいませんガーンガーン

入っていいのかな?

扉は開いています上差し

ということは、入って良いということですよね?

教会ですものニコニコウインクキラキラ

お邪魔しまーす!

めちゃくちゃ静かです。

そして、見事に誰もいません(^^;

このアルメニア教会、

もともとは13世紀にベネディクト修道院として建てられました。

Notre Dame de Tyre(またはOur Lady of Tyre)という名称だったようです。

1303年の大地震により損壊し、時の支配者、リュジニャン(フランク王国)が1308年に修復しました。

当時、修道女の大半がアルメニア人だったことから、ヴェネチア時代に入りアルメニア教会と呼ばれるようになりました。

と、ところが・・・!

いつもの、あのパターンです!!滝汗滝汗滝汗

オスマン帝国がやってきまました!ゲローゲローゲロー

ヴェネツィアは負け、キプロスはオスマン帝国のものとなりました。

そして、この教会は・・・

塩の貯蔵庫となってしまったのでしたゲッソリゲッソリゲッソリ

もう、このパターン、やめて~

その後、イギリス統治時代を経て、キプロスは1960年についにキプロス共和国として独立を果たしたわけですが、バンザーイ\(^o^)/

わずか3年後に民族紛争※が勃発しますショボーンショボーンショボーン

ギリシャ系住民とトルコ系住民の対立

そして・・・

ギリシャ側についたと見なされたアルメニア人はトルコによって迫害されます。

教会は、破壊されましたえーんえーんえーん

さらに、1974年の「悲劇の分断」により、この土地は北キプロス側(イスラム教国)となったため、廃墟となっていきました。

今こうして、この教会を訪れることができるのは、

国連開発計画(UNDP)によって大部分が修復されたからです。

内部の修復はまだ完了していませんが、

いつかNotre Dame de Tyreとして人々が祈りを寄せた頃の輝きを取り戻してほしいと思いました。

マリア様、よろしくお願いします!!お願い

むらさき音符

私が天使ちゃんと呼ぶニャンコたち下矢印です。

別の教会の近くで出会いました。

その教会はまた別の機会にご紹介したいと思います。

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