ここは、かつてモンゴル帝国の首都が置かれていた、カラコルム、現在はハラホリンと呼ばれる人口9,000人にも満たない町です。
カラコルムと聞くと、カラコルム山脈(パキスタン・インド・中国にまたがっている)、あるいはカラコルム・ハイウェイをイメージしがちですが、「黒い砂礫」を意味する、モンゴルの旧都です。
先日、この町にある、エルデニ・ゾー(世界遺産「オルホン渓谷の文化的景観」の一部)を構成する寺院の中の1つ、ゴルバン・ゾーにいらした菩薩様を、いきなりご紹介してしまいましたが、今日は順を追って、この町ハラホリン(カラコルム)とエルデニ・ゾーについて少しご紹介したいと思います。
ハラホリン(カラコルム)は、9世紀にウィグル帝国がこの土地に町を造ったのが始まりとされています。
その後1235年にチンギス・ハーンの三男オゴディオ・ハーン(モンゴル帝国第2代皇帝)がここを都とし、壮麗な宮殿や寺院群が建造されました。
フビライ・ハーン(第5代皇帝)が大都(現在の北京)に遷都するまで、モンゴル帝国の首都として繁栄し、東西交易の中心地でもあった町です。
調べてみると・・・
フビライ・ハーンの即位が1260年、7年後の1267年に大都建造を開始しているようなので、栄華を極めた時代は短かく、わずか25年の間に皇帝が目まぐるしく変わったようです。
1241年にオゴディオ・ハーンが急死しており、翌年にはチャガダイ(オゴディの兄)が病死、ここでチンギス・ハーンの実子がいなくなり、権力争いが一層激化したと考えられます。
マルコ・ポーロもカラコルムを訪れています
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栄華を極めた期間が短かったとはいえ、東西交易の中心地、いわば国際都市だったカラコルムですが、
今はその跡形なく、「ここがかつての首都?」と思うほど、ひっそりとした、小さな町です。
歴史的建築物は、エルデニ・ゾー以外はありません。
(なぜ、エルデニ・ゾーしかないのかは、本文の最後に)

エルデニ・ゾー内、史料展示館の前には綺麗なお花が咲いていました。そこから、ダライ・ラマ寺を臨んだ写真です

資料館はこんな建物で、中にはエルデニ・ゾーの歴史を垣間見ることのできる史料が展示されていました

エルデニ・ゾーは、こんなふうに400メートル四方の外壁に囲まれています

外から見るとこんな感じです。
外壁には、108個のストゥーパ(塔)があります。
除夜の鐘の数と同じですね。
ここでも、煩悩の数を意味しているのだろうか?
仏教の発症地古代インドでは、”108=たくさん”という意味を持っていたという説を聞いたことがあります。
エルデニ・ゾーは、モンゴルで初めて建造された仏教寺院です。
最初の寺院は1586年に完成しました。

3つの寺院が並ぶ、ゴルバン・ゾー(鬼と夫婦になり、子供を食べたという菩薩さまがいたところ)
中央に建っているお寺が、”その”最初の寺院です。
その後、次々と寺院が建てられ、一時は60~100もの寺院、300ものゲルが、一辺400メートルの外壁に囲まれた境内にひしめきあっていました。
境内に居住していた僧侶は1000人にも及んだとか”。
しかし、1930年からソビエト連邦により仏教は弾圧され、多くの僧侶は殺されるかシベリアへ連れていかれました。
そして、1938年、残った僅かな僧侶も還俗させられ、エルデニ・ゾーは閉鎖されました。
現在は、寺院とそれらに付属する建物が18棟あります。
大半は屋外博物館のような形で保存されていますが、
現在でも寺院として活用されている建物もありました。

境内から見た外壁とストゥーパ
で、どうやら、このエルデニ・ゾーを建造するために、かつて旧都として機能していたカラコルムの宮殿などの建築物を壊し資材を調達したようです。
Wikiによると、「16世紀末、チベット仏教の寺院エルデネ・ゾー建設の資材調達のためカラコルムは荒廃した」のだそうです。
ゴルバン・ゾーに使われていた、柱や瓦はかつて宮殿の一部だったのね、と改めて思ったのでした。
ゴルバン・ゾーの中、なかなかすごいです!
写真やビデオとしてカメラに収めてきたので、後日別の記事としてご紹介したいと思います。
これはエルデニ・ゾー内にある、ダライ・ラマ寺の扉です。
ようこそ、エルデニ・ゾーへ!!
軽く触れて、こちらへ来てください。
お待ちしてます
なんて、
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今日もありがとうございました♥